子どもが小さい時の自分と同じ経験をしている時、何かの拍子で、自分自身が忘れていた気持ちを思い出す経験はないでしょうか?
子どもと向き合い、ふとしたキッカケによって、忘れていた記憶がよみがえります。
きっとそこには、自分自身ついて気がつくキッカケが、潜んでいるかもしれません。
子どもの頃に感じていたこと。
心の奥底で眠っていた遠い記憶や想い出。
昔ですっかり忘れてしまっていたこと。
この記事では、これから子育てをしようとしている人、現在、子育てに奮闘されている方、あるいは、内向型と感じられている方向けに共有したいと思います。
- 自分が良いと思ってすすめてみたことが、他の子に良いとは限らないということ → 子どもはそれぞれであるということ
- 子どもと向き合うことで、ふと忘れていた気持ちが思い出ださせること → 自分への理解や原点の再確認につながります
- 自分の場合、内向型をあらためて自覚する機会となったこ
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ふとした妻との会話から…
小さい時にスイミングスクールなど、習い事に通われた経験はあるのではないでしょうか?
習い事は、大体、毎週決まった日に通うのが多いと思いますが、時に都合がつかないで休まざるをえない日も出てくるのではないかと思います。
現在、息子は5歳。とあるスイミングスクールに通っています。
息子が通うスイミングスクールは、「いつでもコース」が設けられ、週2回・毎月8回のうち、自分が行きたい日を自由に選べるオプションがついています。
「いつでもコース」は、若干値段の方は高くなりますが、他の予定が入ってその日に通えないなどした場合、別の日程を柔軟に選べるメリットがあります。
息子は、現在スイミングに夢中であり、いつもと違う日でも毎回嫌がらず、嬉々として通っています。
子どもによっては、突然、今日は行きたくないなどぐずったり、抵抗したり、手を焼かされることも多いのではないでしょうか。
その点、スイミングスクールについては、息子は今日は行きたくないなど言い出さないので、大変助かっています。
ところで、妻がこの「いつでもコースがいいよ」という話を、息子のママ友にしました。
しかし、予想外に、ママ友の息子さん(息子の友だち)は、「いつでもコース」が良い訳ではないのだと言います。
「いつでもコース」を受け付けないのには、別の日だと、自分の知っている友達がいないから…というのが理由で、妻は、「自分は、息子が全然嫌がらず毎回喜んで行くので、他の人にも『いつでもコース』が良いと思ってススメたけど、必ずしもそうでないことがわかった!」と、半ば驚きながら話すのが印象的でした。
物事の受け止め方や反応は子どもによって違う
息子は、「いつでもコース」の下、違う日でも全然気にせず、毎回嬉々としてスイミングスクールに通っています。
他方、友だちは、いつもの友だちがいないから…と、日時が違うコースを嫌がります。
大人は、自分の都合や利害で考えがちです。
しかし、子どもによって、大人が考えたことが、合う、合わないが分かれます。物事に対する受け止め方や反応は、子どもによって違うのですね。
どちらの子の方が、良いとか悪いという話ではありません。
きっと、ある物事が、必ずしもその子にとって良いとは限らず、子どもはそれぞれということなのでしょう。
自分の子ども時代に忘れていた気持ちが思い出された
妻から、「いつでもコース」に対する反応の違いについて聞かされた時、自分の子ども時代のことが思い出されました。
子どもの時に通っていたスイミングスクール(息子とは違うスイミングスクールですが。)にもクラスを欠席した場合、別の日程で通える「振替出席制度」がありました。
では、自分は、子どもの時、振替で別の日程で嬉々として行ったか?
正直、行くのはイヤでした。
親からは、決められた日の出席を休んでしまった場合、「お金(月謝)が持ったいなから、行きなさい」と言われ家を追い出され、振替でしぶしぶ別の日程で通わされました。
お金がもったいないからという理由で、嫌々親に行かされたことについて、今も根に持っているとか、嫌がる自分を無理やり行かせたことについて恨んでいるとか、そのことを責めたいとか、そういう事をここで申し上げたいのではありません。
親が当時言ったように、お金は大切ですし、支払ったお金がムダになってしまうのはもったいないのは、子どもながらに理解できました。しかし、それでもイヤでした。
なぜイヤだった?のか。
そこには、息子の友だちのように、自分が知っている友だちがいなかったという理由もあったのかもしれませんが、それ以上に、知らない先生、知らない人たちがいる環境に行かなければならないことがたまらなくイヤだったのです。
違った環境に行かなければならない居心地の悪さや恐怖感におびえていたのでしょう。
大人になった今でも、できるならば引きこもっていたいと考えています。今でもよく知らないところに行くのは抵抗がありますし、転勤や海外赴任になったらイヤだと思っています。(他人は、このような経験は必要だし、人生の糧だとか、良い経験になるとか言います。ある意味、余計なお世話です。)
そして、違った環境に違和感を覚えるというのは、内向的であることの証左であるとも考えています。
ここに自分自身の原点が表れているかもしれません。
ことわざで言う「三つ子の魂百まで」とは、こういうことなのかとも思います。
子どもと向き合うことは、”鏡”をみることにつながる
幸い子どもを持つという機会を自分も得られ、ありがたいことだと日々感じています。
少なくとも子どもはとてもかわいいですし、子どもに接することは、毎日楽しく幸せでいられると感じています。
一方で、子育てを終えた立場でもありませんし、特に、子育てについて、こうしなければならないみたいなものもなければ、立派でえらそうな事を語れる立場でもありません。
まだまだ子育て真最中、日々暗中模索で、子どもに対し、時についついイラッとし、自分の余裕の無さや至らなさについて自己嫌悪におちいる日々でもあります。
子どもと向き合う中で日々感じるのは、風貌や外観は、確かに自分に似ている。
しかし、子どもの中身、すなわち、性格や振る舞いはまったく自分と異なった存在であり、自分とは似ても似つかないまったく別の人格であるという、当たり前のことに気づかされます。
子どもと向き合うこととは、否が応でも自分自身と対比・対話していくことに他なりません。
比べることで、子どもとともに自分についても、いろいろな気がつかされることがあると考えています。
子どもと向き合うとは、ある種、鏡に映る自分を見ることにつながってくるのではないでしょうか。
スイミングスクールの「いつでもコース」という会話をきっかけに、忘れていた事に今回気がつかされました。
この気持ちの背後には、環境の変化に敏感であること、そして、自分が内向型の人間いうことが隠されているのではないかと思います。
自分自身の「原点」にあらためて気がつかされ、向き合うことになりました。
「子どもと向き合うことは、自分自身との対話で自身を知ることです」のまとめ
スイミングスクールの「いつでもコース」を中心に話をしてまいりました。
「いつでもコース」は、便利だと思いますが、全ての子どもにメリットとは限りません。
大人は、自分が良いと思うことをどうしてもススメてしまいます。
しかし、大人に都合が良いことが、必ずしもその子にとって良いかどうかはまた別の話です。
子どもは、子どもでそれぞれであること。息子と友達も違いますし、兄弟であっても違うかもしれません。
さらに、ふと忘れていた子ども時代の自分の気持ちに気がつかされました。
子どもと向き合うことは、結果として、自分と向き合うことにつながっていきます。
子育てや子どもと向き合うのは、時にしんどく大変です。
一方で、かけがえのない大切な時間を与えてくれる機会になるのは間違いありません。
そうした時間がとてもありがたいと思う、今日この頃であります。